今でいう
幼少期の私は今で言うところのADHDでした。
授業中座ってられない。
言うことが聞けない。
集団登校できない。
もちろん教師とは揉める。
でも母はほとんどそれを嗜めることはありませんでした。
むしろ教諭と揉めた時など応援してくれるくらいだった。
今回、母逝去に伴い
母のこと、自分の備忘録として回想しながら書きます。
もちろん個人的な事なので皆さんが呼んでもつまらないものかもしれませんが
間違いなく
今の僕を形成しているのは母の「我」であり
ひいては「なぜ佐々木がジェンベに魅せられているのか?」に
間違いなく繋がるものなので
どうかお許し下さい。
昨夜3月9日木曜日夜
いつものプレジェンの前に姉から「母が危ない」と連絡あり。
そして叩き出して数十分、20時すぎに妻から電話があって
「お母さん、亡くなっちゃった」
って知らされた。
参加者さんに事情を話したら「すぐに行ってあげて下さい」とおっしゃって頂き
カミさんと病院へ向かう。
その6時間前、僕は数十年ぶりに会う従兄弟と姉と3人で母を見舞っていた。
面会場所にベットに横たわったままの母は
目を閉じたままで
それでも「秀人だよ!純子ちゃん(従兄弟)久しぶりに来てくれたよ!」
と声かけると
うんうん頷きながら応えてくれていた。
今思うと閉じたままの目から
うっすらと涙が浮かんでいたようにも思う。
具合が悪くていつもの気丈な応答ができない自分が悔しかったんだろう。
でも早く駆けつけられたおかげで
(プレジェン途中だったのに「早く行ってください」と僕を送り出してくれた参加者さんたちのおかげです)
その顔や手はまだ暖かかった。
元々肺気腫があったり糖尿気味だったりで
昨年12月には熱が続いたためコロナの疑いもあって入院した。
検査の結果、コロナではなかったが肺の具合はよくない。
そんな母を姉はここ数年頻度高く車で行って面倒を見ていた。
カミさんも姉と連携とりながら交代で実家へ行ってくれていた。
よくカミさんから「たまにはお母さんへ電話して!絶対後で後悔するから!」って
常々言われていたんだ。
待合室からチラッと見えた、医師の話を車椅子に乗ってぼんやり聞く母の後ろ姿は
あの日烈火の如く職員室で教師を怒鳴り散らした時の気迫のかけらもなく
いろんな思いが自分を支配した。
入院した病院は週に一回、10分2名のみという条件でお見舞いが出来た。
最初は姉と週替わりで、時にはカミさんや子供たちも帯同してしょっちゅう会いに行った。
思えばこんなにお袋に会いに行ったことは
佐々木少年17歳以来初めてだった。
ビフテキ
幼少期の母との思い出は強烈なものが多いが
中でも今でも鮮烈に思い出せるエピソード
あれはおそらく小学5年生か、朝1時間目の家庭科の時間
「今朝食べてきたものを書きなさい」
と当時の担任Yが用紙を配った。
(今思うとあれはポークソテーだったかもしれない)
のを母がトーストに挟んでくれて食べたので
佐々木少年は用紙に
「ビフテキ」
と書いて提出した。
用紙を集めて目を通したYが
「佐々木くん立ちなさい」と言い
「いいですか、嘘を言ってはいけませんよ。」
「朝からビフテキを食べる家庭なんてないでしょ」
僕は「いえ、食べましたよ。」というと
「それではお母さんに証明書を書いてもらって来なさい」
というので、その頃仕事はしていたが家にいるであろう母に書いてもらうために
その場でランドセルをまとめて授業中一人で帰宅した。
たまたま母は家にいて、ことのあらましを話すと
「行くよ」
と一言つげてドシドシ学校まで歩き出す。
その後ろ姿から放たれる怒りのオーラたるや
職員室に入るなり
「こら!Y!」
「うちはねー、貧乏だけど、他人にとやかくイチャモンつけられる筋合いはねーんだ!」
「特にどんなに貧乏でも食べもんには一番気を使ってるんだ!」
他の先生が宥めたりして、なんとかその場を収めた。
筋が通らないことに対しては
徹底的に筋を通そうとする
それが母だった。
色々あって、その担任Yと僕だけではなくクラスの生徒はうまくいかなくなって
6年生の修学旅行前に特につるんでたKくんとHくんと3人で
「Yを担任から外してもらおう」
という事になって
ある朝、当時のM校長へ話に行く直前、KもHも
「秀人、代表で行ってよ」
となって、職員室へ行き、そのまま校長室のドアをノックして入った。
M校長は事前に1組が揉めてる話を聞いていたのか
「わかりました。協議します」
と言ってくれた。
その校長の頭越しの窓に
外から覗き込むKやHほかクラスの数名の姿が見えた。
結局、担任が変わったんだけど、その前の保護者会で事件は起こった(らしい)
PTA的には問題は起こらない方がいいわけで
KやHが親にどういう話をしたかは今となってはわからないが
「うちの子は佐々木さんの息子さんにそそのかされてたらしいですわ」
となって、母は孤立した。
母がそこで何を言ったかの内容は聞かされていないが
「啖呵切ってやったわよ」
とだけは言っていた。
敵?味方?
それでも母の凄いところは
敵にまわしていたと思っていた先生方が
卒業式直前に「こんなこと言ってんのよ」って母。
聞けば
「秀人のお母さんが卒業式で泣くかどうか、みんなで賭けてんすよ!」
って笑いながら言ってやがったって。
そう
母は裏表が全くない分
言いたいことを言う。
口も悪い
その分トラブルも多いが
母を頼って相談に来る人も多く
敵も多いが
味方がメチャクチャ多い人だった。
そして例外なくその味方の人たちは
その後迎えた母がピンチの時
身体を張って助けようとしてくれた。
掛け値なしで。
存在価値
僕に対しても母は真っ向勝負の火の玉かあちゃんだった。
小学時の様々な問題行動をとる自分に対して僕は
「俺って絶対おかしい、なんでみんなと同じにできないんだろう?」
って疑心暗鬼になっていた
でも母は全く狼狽えることなく
時には受け入れ、時にはたしなめ
全面信頼してくれていた。
警察に引き取りに来てくれた際も
「お前も警察のご厄介になるようになったか!」
だって。
川越の家庭裁判所で審判を受けたときも
「こういう機会が無いと秀人と一緒に出かけることも無くなっちゃったからな」
だって。
そん時、うっすらと思った。
この人のような心持ちと行動のできる大人になりたい、と。
母は常に働いていた。
雨の日も風の日も
生保の営業、ゴルフ場のキャディ、デパートの販売員、、、、、
青年期の佐々木少年が母に対して抱いていた
畏敬の念と
相反する反発心は
「自己嫌悪の投影」であったと
成人して一端の社会人になった頃は思ってた。
そう、前日コロナで中止になってしまった奈良道場の悔しさを拭うべく
奈良さんの千葉の家で奈良道場メンバーで叩いて呑んでした夜
「明日、お袋とワクチン接種行くので、深夜帰るね」
って言って
そう、歩けなくなっていた母のコロナワクチン接種に同行した際に
接種待ちの車の中で
時間にして30分くらいかな、、、
話した。
「あの時母さんが俺を後押ししてくれたから、今、一途前のフリした大人になれたよ」
「本当にありがとう」
って。
そんな俺に母は
「いつでもあんたは自慢の息子だったよ」
って言ってくれた。
嗚呼
受け入れ難いものは受け入れず突き通す強い信念と
常に感謝を忘れず持ち続ける熱い想い
俺はあなたのようになりたかったんだって
それは自己嫌悪の投影ではなく
憧れだったんだって。
今、ようやくわかりました。
これからあなたの葬儀です。
僕は霊とか全く疎い方ですが
ようやく肉体を離れて
僕ら親族の日々の暮らしを
傍で見ることができようになるね。
どうか
みていてください
あなたの息子が日々
どんな人たちに向かって
どんなことをしているかって
そのことが
本当にあなたがしてきたように
誰かのためになっていたとするならば
本当の意味での
自慢の息子になれるはず
ああ、喪主の挨拶できるかなぁ?
頑張るよ、おふくろ!!!!