はじめに

全大宴2におけるラウラウクラスの「サイドストーリー」については

TDFのサイトで全大宴2をやってからすぐの5日後、11月18日に書いてます。

「サイドストーリー(熊本編)」

そちらを是非ご覧ください。

ここではそこに書かなかったことを書こうと思います。

 

無力感

「熊本ジェンベシーンを元気にしたい」

己の力量を顧みず感じたままを口にする悪い癖が出た。

それでも「自分のために」動きたかった。

大さんが倒れる少し前から、そう、あの熊本大地震あたりから何となく感じていた熊本ジェンベシーンの動きが聞こえて来ないということ。

もちろんポー達が頑張って「火の国アフリカ」をやっていることは知っていた。

でも、僕が思う熊本ジェンベシーンっていうのはワサワサを中心とした

「ジェンベ猛者たち」

福岡のフォリカン

とのツートップ

の一角の熊本だったからだ。

でも大さんが倒れてすぐにポーが呼びかけてチャリティーライブをやってくれた。

ポーは本当にいい奴だ。

送られてきた10個の大さんの似顔絵が描かれたピンバッチ。

なんだ?
このにがにがしさは?

そうだ、すぐさま飛んでいかずに

お金で自分の気持ちを整理しようとしている自分の汚

にだ。

もちろんコロナ禍だとか時間がないとかっていう言い訳はいくらでもある。

でも

あの時の大さんだって忙しかったはずだ。

2006年8月。

ママディのため、は表向きであの時は発病しているママディと、モネットと、ママディのクラスを受けにきたのに叩けないママディの前で釈然としない受講者への対応で疲弊していた僕ら江戸マンのメンバーを心から想って大さんは熊本から文字通り飛んできてくれた。

オリセンの廊下、大さんが向こうから歩いてきた時のえも言われぬ安心感と、大さんに会った時にママディが浮かべた安堵の表情を

僕は一生忘れない。

もし今熊本で1から頑張ろうとしているラウラウのワークショップを盛り上げることをキッカケに

そしてラウラウの魂を、猛者たちがまた集まれる拠り所として

「熊本のジェンベ熱再燃」に寄与できたらって思っていました。

 

焦り

そんな時に火の国アフリカで踊ってたタムちゃんがラウラウのサポートをしながらダンスクラスを始めた知らせが

全大宴1をやってる頃2021年3月に入りました。

たむちゃんは火の国アフリカで踊ってた訳だけど、ポーの動きとは別で動き出したって思ったんです。

だからポーには僕の方から連絡を敢えてすることは避けました。

たむちゃんが動きづらくなると思ったからです。

ある意味大先輩であるポーを差し置いてラウラウと動き出し、ダンスクラスも自分が仕切る訳ですから。

結果、妙竹林な気の使い方をしてしまっていたようです。

ポーはめちゃくちゃ後方支援してくれてました。

 

3月、即たむちゃんにオファー。

今思うとたむちゃんに申し訳ないことをしたと思ってます。

負担が全部たむちゃんに行っちゃった。

だって、ドラマーでもないたむちゃんがラウラウの素晴らしさを

「埋もれさせるわけにいかない!」

この一点でサポートを買って出てくれ

しかも根付く前の第一回終了後の佐々木のオファーに真剣に取り組んでくれました。

タムちゃんは書いてます。

「ラウラウは先生としても素晴らしく、皆 魅了されておりました。

初心者から猛者たちが集まっておりまして、私もこれから根付いて欲しいと思っております!

熊本としても、歴は長いけれど、生活スタイルの変化からジェンベ叩く人が減っていき、新しい人もなかなか増えず、となっておりまして、ラウラウの求心力に私も期待しているところです。」

その問題意識は共有されていた。

思いっきり。

しかし、たむちゃんはダンサー。

もちろんドラムも叩きますよ。本番はサンバンガッツリ叩いてたもんね!

東京のユーキンにしろ名古屋のランボーにとってのナナちゃんには廣瀬くん(次章でのべます)、沖縄のママディにとってのナッちゃんには亮太くんが

ドラマーとしてガッチリとサポートしていた。

その役割も僕は今回、たむちゃんに求めてしまっていました。

ユーキンは逆にサポートすることにいい意味でしっかりした目的があった。

「盗む」という言葉自体はいい響きではないけど

サポートすることで「ドラマーとして」得ることは

途方もなく大きい

たむちゃん、ごめんなさい。

 

そして、、、

 

修造。

 

待ってるよ。

 

ヒロシ快走!

事前訪問は2021年7月の頭。

ユウキンと一緒に行きました。

そしてデルタ株爆発の8月9月、施設閉鎖で苦労しながらタムちゃんの努力で貸しスタジオで練習したり、、、

で迎えた収録当日10月23日。

この日熊本はラウラウ&ウスマンの合宿を熊本の山奥で実施していて、夜のクラスが終わった頃にその場で演奏収録しよう!

っていう段取りでした。

僕は名古屋のジェンベ道場の収録を昼過ぎに終えて、三宅さんに駅まで車で送っていただき、

名古屋駅から熊本へ向けて新幹線さくらで熊本へ。

名古屋から熊本へさくらって凄い4時間ちょっとで着いちゃうんですね。

予定だと19時11分着。

ドゥンドゥンのヒロシがその日仕事&翌日も予定ありで、キャンプは後乗り・夜中帰りっていう強行軍だったので

熊本駅まで僕を迎えにきてくれて一緒に現場入ろうってことになってました。

車で1時間強、収録予定の21時までにはゆっくりで間に合う・・・・・・・予定でした。

広島を過ぎたあたり、16時ごろ、ワーク休憩中であろうたむちゃんからメッセージが来ました。

????

「実は施設から20時過ぎに音をやめてくれと言われてしまいました」

と。

なんですとおおおおおお!!

ここはたむちゃんに何とか頼み込んでくれって

ここでもまたお願いしてしまった。

結果、何とか20時半から40分までの「10分限定」で許可を取ってくれた。

ということは、熊本駅着が19時11分、ヒロシと待ち合わせて車に乗るのが19時半。

1時間強の旅程を

ヒロシの運転に賭ける!

ってことになったんです。

ヒロシは

「実は運転慣れてないんです」

って正直に話してくれた。

そして車中、熊本のジェンベシーンの変遷について、決して雄弁ではなく落ち着いて

そして主体的かつ客観的な考えを話してくれたんです。

後で見返したら、熊本地震前から熊本のジェンベシーンの写真には必ずヒロシが

目立たないように後ろで写ってた。

めちゃくちゃいい奴です。

刻一刻と時間は過ぎていきます。

でも、もう腹は括ってました。

それにこの展開はドラマチック過ぎて

こんなジリジリした感情はいくらお金払っても出来ない。

そして追い打ちをかけるように20時を過ぎて山道に差し掛かった頃

この先、崖崩れで通行止め

という看板がどデカく我々の行方を阻んだんです。

僕がガーン!ってなってる中、ヒロシは逆に冷静でした。

ささっとハンドルを左に切って迂回路に入っていったんです。

そこは細く起伏が激しく先の見えないワインディングロード。

それでも運転に不慣れって言っていたヒロシはぶっ飛ばしました。

!!!!!

なんか元気が出てきた!!!

コイツ、凄い!

正直、あと10分しかないのに絶対間に合うって、

確信してました。

そして20時29分。

リミット1分前に現地に到着したんです。

その後すぐに着替えて演奏に入っていったヒロシ。

最高だったよ!

本番演奏はこちら

その後は片付けて

何だかホッとしちゃったのと

データ確認したかったのもあって部屋で確認。

少し遅れてBBQ会場へ。

ラウラウ&ウスマンキャンプには熊本や西日本のジェンベやアフリカンダンス好きに混じって

修造の姿。

修造のことは車中でヒロシから「時間さえ合えばいつも駆けつけてくれる仲間です」

って聞いた。

東京からラウラウには内緒でユウキンとヤマハコも来ててめちゃ盛り上がってました。

 

バスで市内へ

翌朝、夜中に到着したから周囲の様子がよくわからなかったけど

自然いっぱいの旧菊池東中学校を利用した、いい施設です。

その日は合宿2日目。

ドラムクラスが始まる前にラウラウにテーマソングのオブリングを叩いてもらって収録。

流石なのは、後でミックスしてわかったんだけど

イヤフォンから微かに聞こえる僕が叩いてるたたき台としてのDANSAのコンゴニに合わせて

ドゥンドゥンのフレーズとジェンベのアドリブを絶妙に組み合わせて叩いてくれたこと。

ラウラウがジェンベフォラと呼ばれるのは

そのプレイが超速で派手、というだけではなく

どんな音楽にすると躍動感とか高揚感が溢れてくるのかを体の底からよくわかってるってところだと再認識した。

熊本駅行きのバス停までポーが車で送ってくれた。

ポーは今回の全大宴の動きの中

ズーーと見守りながら手助けしてくれた。

僕が妙竹林な気の回し方をしたもんだから、正面切って色々お願いできなかったのにだ。

思えばジェンベとかダンスとかの

「垣根」

を作っていたのは僕の一方的な思い違いで

ポーの中にあったのは

ここ数年間熊本で頑張ってきた自負と

震災でダメージを受けた熊本を盛り上げたいという熱い想い

だけ。

とてもシンプルだった。

難しく考えていたのは僕だけだった。

謝ってばかりだが

ポー、ごめんなさい。

 

バスは田舎道から段々と市内へ。

熊本バスターミナルで降りて路面電車へ。

運転手さんの後ろの広告に崇城大学の井芹祭の広告があって

ジェンベ部の演奏の写真が出てた。

そうすけくん!

出てるよ!休部してる場合じゃないよ!

でも実はミキプーがジェンベを教えにいってるって聞いた。

なんか、ここから再燃していけるんじゃないかって、ちょっと嬉しかったです。

通り道筋から歩いて大さんの待つプライベートロッジへ。

広島へ行く前にメグさんが運営している

ロッジのマクロビランチ

大さんが焼いてくれた鰻の蒲焼きを頂いた。

これが本当に美味しくて。

これをご覧の方で九州へ旅行へ行く予定のある方は是非食べにいって欲しいです。

大さんとメグさんと談笑させて頂いて、新幹線の時間もあるのでおいとましようとしたら大さんが

「駅まで車で送っていくよ」

って。

大さんは、まだ杖を付きながらの生活。

でも車は最近運転し始めたから大丈夫って。

ほんと、申し訳ない。

熊本駅まで数分の出来事だったけど

僕にとっては

この数年間、大さんに会いに行けなかった、

いや、行かなかった自分を責め・悔いた時間を

なんか巻き戻せた時間だった。

そしてお別れのとき、大さんは

「今度は俺が出演してママディから教わったスペシャルソロを叩くけん!」

って力強く、あの頃のような大きな声で

先月亡くなったママディに向けてと

僕の目をまっすぐ見ながら

言ってくれたんです。

 

追伸

今思うと

ラウラウクラスはまだまだこれから時間をじっくりかけて

じんわりと熊本に根付かせる必要があって

たむちゃんにかけてしまった負担・ポーに気を使わせてしまったこと・大さんにも無理させちゃったこと、、、、、

俺、空回りしちゃった。

でも

何故か後悔はしていません。

きっとそうすけくんや、みきぷー、

そして大さんのSNSで

ニッカポッカの新風でソロを叩いてくれたハマくんよーへいくんが

ロッジで子供達にジェンベを教えてる映像を見た。

その奥のカウンターには野々上さんの姿。

新旧まみえてる!

 

小さいかもしれないけど

新芽が出てくれたと思ったからです。

よし!

俺も負けてらんねー!

ガッツリ鍛えて叩くぞ!

 

最後に。

ラウラウ、ありがとう!

最高の感謝を!

 

続く

 

 

 

 

 

By ジャンベ佐々木

1965年東京都練馬区生まれ(現在55歳) 小学6年生の時、父に連れられて行った銀座のクラブで沢田研二の「勝手にしやがれ」を歌ってかぶってた白い野球帽をシャって投げたらクラブ中が沸いてホステスさんにムギュってされてから人前で何かやることの快感を覚える。 1991年ジェンベと出会う。2001年ジェンベネットショップ「楽屋」創設、2006年加藤タクミと「TDF東京ジェンベファクトリー」創設。2012年に第一回ジェンベ大発表宴会を開催、2021年3月に「全国ジェンベ大発表宴会1」を開催。

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